教えのやさしい解説

大白法 673号
 
功 徳 聚(くどくじゅ)
 功徳聚とは、功徳の聚(あつ)まるもの、聚まるところをいいます。
 日蓮大聖人は『日女(にちにょ)御前(ごぜん)御返事』に、
「曼陀羅(まんだら)と云ふは天竺(てんじく)の名なり、此(ここ)には(中略)功徳聚とも名づくるなり」(御書 一三八八n)
と、功徳聚とは漫荼羅(まんだら)の別称(べっしょう)であることを御指南されています。

妙法漫荼羅御本尊
 日寛上人は『法華取要抄(しゅようしょう)文段(もんだん)』に、
「夫(そ)れ曼荼羅とは功徳聚集(じゅしゅう)と名づく。今真実の功徳を以(もっ)て集めて一処(いっしょ)に在(お)く故なり」(御書文段 五四八n)
と、漫荼羅とは真実の功徳を集めた功徳聚の当体(とうたい)であり、また所在(しょざい)であることを仰せられています。
 そして『観心(かんじんの)本尊抄文段』には、
「此の妙法五字の本尊に釈尊の因位(いんい)の万行(まんぎょう)、果位(かい)の万徳(ばんとく)の宝を聚(あつ)む、故に『宝聚(ほうじゅ)』と云うなり。故に此(こ)の本尊を亦(また)功徳聚と名づくるなり」(同 二二九n)
とあるように、大聖人御図顕(ごずけん)の妙法漫荼羅本尊は、釈尊一代(いちだい)仏教中で説かれた教主釈尊のあらゆる修行(因位の万行)と、その修行によって得た仏界の功徳(果位の万徳)を兼(か)ね具(そな)えた真実の功徳聚であることを明かされています。
 爾前(にぜん)迹門(しゃくもん)では、釈尊は菩薩として無量の長期にわたり六波羅蜜(ろくはらみつ)を行じ、その功徳が満(まん)じて仏に成(な)ったことが説かれ、また本門では、釈尊が五百塵点劫(じんでんごう)以前、本因(ほんにん)初住(しょじゅう)の位(くらい)において菩薩道を行ぜられ、五百塵点劫に成道(じょうどう)されたことが説かれています。
 この釈尊本果妙(ほんがみょう)の脱益(だつやく)仏法に説かれた一切の因行果徳(いんぎょうかとく)の二法の万行万徳を一処に集め具(そな)えたのが真実の功徳聚であり、それが大聖人の妙法漫荼羅御本尊なのです。

真実の功徳聚とは人法一箇(にんぽういっか)の御本尊
「本尊に人(にん)有り法(ほう)有り(中略)是(こ)れ則(すなわ)ち諸仏諸経の能生(のうしょう)の根源にして、諸仏諸経の帰趣(きしゅ)せらるる処(ところ)なり。故に十方三世の恒沙(ごうじゃ)の諸仏の功徳、十方三世の微塵(みじん)の経々の功徳、皆咸(ことごと)く此(こ)の文底下種(もんていげしゅ)の本尊に帰(き)せざる莫(な)し」(同 一八九n)
との『観心(かんじんの)本尊抄文段(もんだん)』の御文(ごもん)から拝せるように、その真実の功徳聚である漫荼羅御本尊は、久遠元初(くおんがんじょ)本因妙(ほんにんみょう)という仏法の能生(のうしょう)の根源、人法一箇(にんぽういっか)・境智冥合(きょうちみょうごう)の御当体(ごとうたい)です。その人法の本尊・境智に、釈尊脱益仏法の一切の諸仏諸経の功徳が具わり究尽(くじん)されています。すなわち人(にん)本尊は『御義口伝(おんぎくでん)』に、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書 一七七三n)
と、末法の法華経の行者である日蓮大聖人をいい、また法(ほう)本尊は『本尊問答抄』に、
「法華経の題目を以(もっ)て本尊とすべし」(同 一二七四n)
とあり、さらに『草木成仏口決(ぐけつ)』に、
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(同 五二三n)
等と仰せられた、久遠下種・事(じ)の一念三千の南無妙法蓮華経の漫荼羅御本尊をいいます。
 この人法(にんぽう)の本尊は、大聖人の御化導(ごけどう)の究竟(くきょう)として、弘安(こうあん)二(一二七九)年十月十二日に「本門戒壇の大御本尊」として御建立されましたが、この大御本尊に認(したた)められた「南無妙法蓮華経 日蓮」の本因妙・人法一箇の境智冥合の法体(ほったい)こそ、仏法根源の真実最勝の功徳聚なのです。

本門の題目
日寛上人は『妙法曼荼羅供養抄見聞(けんもん)筆記(ひっき)』に、
「本門の題目には、十方三世の諸仏の因果の功徳を具足(ぐそく)するなり。故に功徳衆と云うなり」(御書文段 七〇八n)
と、三世十方の諸仏の因果の功徳が本門の題目に具(そな)わることから、本門の題目を功徳聚と仰せられています。
 本門の題目とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることをいいます。本門の題目の実体(じったい)実義(じつぎ)は、本門の本尊たる妙法漫荼羅御本尊にあり、その御本尊以外に成仏の直道(じきどう)はないと強盛(ごうじょう)に信じ、その南無妙法蓮華経如来の名号(みょうごう)を私たちも唱えさせていただくのが本門の題目なのです。
 故に『観心本尊抄』に、
「釈尊の因行果徳(いんぎょうかとく)の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此(こ)の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲(ゆず)り与(あた)へたまふ。四大(しだい)声聞(しょうもん)の領解(りょうげ)に云はく『無上宝聚、不求(ふぐ)自得(じとく)』云云」(御書 六五三n)
と仰せのように、ただ信心をもって本門の題目を口唱(くしょう)するとき、速(すみ)やかに釈尊因行果徳の「無上宝珠」の功徳を自然(しぜん)に得(え)ることができるのです。

登 山
 大聖人は『四条金吾(きんご)殿御返事』に、
「今此(こ)の所も此(か)くの如し。仏(ぶつ)菩薩の住み給(たも)ふ功徳聚の砌(みぎり)なり。多くの月日(つきひ)を送り、読誦(どくじゅ)し奉る所の法華経の功徳は虚空(こくう)にも余(あま)りぬべし。然(しか)るを毎年(まいねん)度々(たびたび)の御参詣(ごさんけい)には、無始(むし)の罪障も定めて今生(こんじょう)一世(いっせ)に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」(同 一五〇二n)
と、大聖人がおられる身延(みのぶ)を指(さ)して、仏菩薩が住む功徳聚の砌と仰せられました。故に参詣の功徳は、無始(むし)以来(いらい)の罪障も今世(こんぜ)において消滅するのであるから、毎年度々参詣するよう強く勧(すす)められています。
 現在では、この「功徳聚の砌」とは、大聖人の御当体たる「本門戒壇の大御本尊」在(おわ)す総本山大石寺であり、大聖人が仰せのように、努(つと)めて参詣するよう心がけねばなりません。私たち日蓮正宗の僧俗のみが、登山参詣し、其(そ)の「功徳聚」たる大御本尊を拝して功徳を戴くことができるのです。
 そのことを自覚し、これからも「『立正安国諭』正義顕揚七百五十年」の佳節(かせつ)に向かい、さらなる折伏に励み、共々に広宣流布へと前進していこうではありませんか。